Mayumi Itsuwa

Mayumi Itsuwa

音楽つれづれ(東京新聞より)

少女時代

今日から一年間、毎月一回、このページにあれこれ書かせていただくことになりました。「音楽つれづれ」というタイトルどおり、つれづれなるままに私と音楽のかかわりを描いていきたいと思っています。

一九七二年十月二十一日に「少女」でレコードデビューをしてから三十三年の歳月が流れました。人はよく、その気持ちはいかがかとお聞きになりますが、あえて考えようとしますと、ずっしりとそれだけの重みが体中に感じられ、まるで重力と年数というものが比例しているかのような…。何はともあれ、曲作りの元となった私生活と公の場とを編み込みながら筆をすすめていこうかと思っていますので、どうぞよろしく。

まずは私の生まれ育った背景、子供時代などをあいさつに加えてちらりと。場所は東京・中野の中野新橋で、今は相撲部屋のイメージが強くありますが、自分にとっては思い出すだに懐かしいどこにでもあるような素朴な町です。性格の方は無口で恥ずかしがり屋の反面、怖いもの知らずでネコのように好奇心旺盛な子供でもありました。何を追いかけたのか、どこまでも歩き続けて迷子になってしまったり、防空壕、洞穴などの誰かが作った形跡のある人気のない場所には暗闇でも異常なくらい興味があったのです。でも、小学生の時、鍵のかかった学校の地下室に鉄格子の壊れた小さな窓から入って出られなくなってからは再び探検することもなくなりました。

不可思議な行動をとっていた子供も大人になってからはその想像力のたくましさを仕事に生かしてようやく落ち着いた、というわけです。物語や詩は体験プラス想像力によって生まれ、時に苦しい体験もイマジネーションの力を借りて美しく創作されることでなぐさめられたり、完結したりします。今私は音楽と共にあることを本当に誇らしく、そして幸せに感じています。  (東京新聞夕刊 2005.11.14 掲載)

歌の力

その日の朝、わたしは長いことすることもなかった全国キャンペーン「KOKORO NO TOMO」に乗り出し、浜松、名古屋に向かうため、新横浜の新幹線ホームに立っていました。冬の到来で冷え込んだ風がランダムに吹いていて、それはやがて超スピードで通過する新幹線がもたらす大風に取って代わりました。

電車に乗り込む人々の速いテンポの中、さしずめ浦島太郎の境地を味わいながら当地に着くと、どこの放送局、新聞社や雑誌関係の人々も熱烈歓迎で迎えてくれました。こんなにも一様に「WELCOME」の視線を浴びたのは数十年ぶりのような気がします。家に戻った時は、そう、タイムスリップにより時差ぼけとでもいいましょうか、たった一日が一週間にも感じられるという不思議な感覚でした。

「KOKORO NO TOMO」(心の友)は一九八二年のアルバム「潮騒」の中に収めた歌で八五年にインドネシア全土に広まり、去年起きたスマトラ沖地震をきっかけに今年インドネシアの人たちとの大合唱で再録音したものです。先日はNHK「土曜フォーラム」(赤十字シンポジウム、スマトラ沖地震つないでゆく支援) にも参加、客席でお聴きになられていた秋篠宮紀子さまからは温かいご声援をいただき、興奮さめやらぬままに収録が終わりました。これはわたしにとって大きな励みになりました。

一人ではなく、同じ意志を持った人たちと一緒になって地球規模の仕事をすることはすばらしいものがあり、ましてや自分の持ち合わせる歌で力になれるなんて…。次の週には大阪に行き、やはりそこでも沢山の笑顔と出会いました。これはまぎれもない「KOKORO NO TOMO現象」と確信し、もっともっと日本全国いろいろな場所を訪ねていきたいと思いました。心の友の輪を広げるために今わたしは心から言えるでしょう、ただ「がんばります」と。  (東京新聞夕刊 2005.12.12 掲載)

スター時代

琴欧州の出番になると、手に汗がにじみ、心臓が波打ち始める。誰もが常に絶対的なスター、あるいはヒーローを待ち望んでいるこの人間界にあって、わたしもまぎれもなくそのひとりです。ありふれた日常のなかに咲いた大輪の花はわたしたちのあこがれであり、夢そのもの。だから、そんな素質が光り輝いている若い人たちに注がれる期待は大きい。

しかしながら、本人にしてみればそれは自分の領域外のことであり、それまでただの空間だったところに巨大な人気の大波が押し寄せてきたことで自分の居場所が窮屈になり、思うように体を動かせなかったりする。これは相撲界だけでなく、そこに人が集まるという仕事をしている人たちすべてが体験するところではないだろうか。

十八歳でアマチュアフォークシンガーとして歌い始めたわたしはそれから十数年間ステージで緊張することを知らなかった。それは他を顧みず、ひたすら自分のことだけを考えていたからです。二十六歳の時パリのオランピア劇場で歌った時も、一九八〇年に「恋人よ」で初めてNHK紅白歌合戦に出場した時も…。自分のやっていることや歌に関して絶大な自信を持っていたから、たとえ緊張していても、歌い始めると共にそれを集中力に変えることができました。

ところが、八〇年代の半ば、結婚、育児という対極の大仕事に踏み込んでから、子供を通じて人の気持ちを理解しようとする優しさが芽生えてきて、わたしを人間的な成長へと導きましたが、反面、歌に打ち込むことがしばらくの間出来なくなりました。新たな環境で自分が変わろうとするデリケートな時期には身も心も不安定ですが、確かなことは、その期間中が非常に有意義で実りのある通過点であることです。

あ、遅ればせながら“初場所”のご挨拶を。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 (東京新聞夕刊 2006.1.23 掲載)

偉大な音楽家

今年はモーツァルト生誕二百五十年ということで、ちまたでは彼の音楽が盛んに取り上げられ、耳にする機会が多くなりました。誕生日は一月二十七日で自分と三日違いの水瓶座。私が生まれたのは五十五年前だから百九十五歳年上というわけです。

音楽家の父と共に幼い頃からツアーをしながら書くことに始まり、生涯生み出した曲の数々は現在もなお光り輝いて、人々を包み込む。まさに類まれな原石として生まれ、特殊なダイヤモンドに進化した。その存在は音楽になり、これからもずっと生き続けてゆく…。そんな彼にも人間としての悲しみや、痛み、おろかさはもちろん備わっていたわけで、中には笑えるようなエピソードもあり、それに対して「偉大な音楽家らしくない」の声は大いにありがちでしたが、私はむしろ親近感を覚え、より彼の音楽がわかりやすくなるような気がしたものです。

たとえば私も音楽好きな父親の元で育ちました。と言うと「うむ、やはり…」と相手を構えさせてしまいますが、そのあと、彼は大工仕事が得意な人で、いつも聞こえていたのは、トントントンという金槌やギーギーと材木を切る鋸の音でした、と付け加えればみなさんはそこで「普通の私」に遭遇することができるでしょう。

完成度の高い曲が出来た時、私は至福ともいえる解放感を味わうと同時にそれが翼をたずさえて飛び立っていくような感じがします。世に送り出してからは自分だけのものではなくなり、さまざまな体験や感受性をもつ人々によって、曲はそれぞれの色に変わります。音楽はその持ち主が不在になる時に本当の姿を見せる。もちろん宣伝文句もいらない。

音楽はそれほどに生き物であり、そこに入り口があれば水のように簡単に入っていって、悲嘆や空しさで傷つき、穴だらけになった心を修復しにやって来てくれます。時代にとらわれない長寿の歌、それはいつも私がめざしているものです。  (東京新聞夕刊 2006.2.20 掲載)

主題歌

先日ファンの方から問い合わせがありました。「『どこまでも果てを知らない空の谷間に~』という曲の題名を教えてください。たしかドラマの主題歌…」。この質問は比較的多いのでここでお話を。

一九七四年の夏にNHKで放映された連続ドラマ「僕たちの失敗」の主題歌「落日のテーマ」。そのころはまだパソコンなどのコンピューター類が世に出回っていなかったので、ほとんどの人が映像の楽しみをテレビに求めていて、夏休みの旅先などで見る人も多かったと思われます。

これは初めて作詞作曲を手がけた主題歌で、前の年に作詞と歌を担当したTBSドラマ「愛子」とともに、発注されて書き下ろしたものです。当時はそういう曲を自分のシングル曲とは別の流れで解釈していたことから、しばらくの間はドラマの頭に使われた1コーラスだけが存在し、2番の歌詞と題名はあとから書くという作り方になりました。

というわけで、「あの歌よかったですね」という賞賛は、自分の中ではあの「銀河テレビ小説」に対する賞賛でもあるのです。

そういえば私も子供時代、面白いドラマで流れる歌や音楽に魅了されました。例えば「七人の刑事」(ハミング)、「ある日私は」、「ゲゲゲの鬼太郎」など…。その一つ一つを全体としてみた場合、どちらが消えても物足りなく感じるのは、まさにドラマと歌がセットになっていて、ドラマを見れば主題歌が聴きたくなり、主題歌を聴けばドラマを思い出すからです。そして最終的には、このように合体した時に初めて、成功を収めた一作品として、いつまでも視聴者の心に残るのかもしれません。

最近見た中では「白夜行」、何年か前の「砂の器」が印象的。  (東京新聞夕刊 2006.3.20 掲載)

ファンとの約束

今年の秋から冬にかけて、十年ぶりの全国ツアーを計画しています。なにしろ、久しぶりのことなので、それが現実になるということが信じられないくらいです。

最後になったツアーは一九九六年「21世紀」。内容は自分にとっての二十世紀の集大成で、コンサートの最後には太陽や核実験など混沌とした時代の映像が流れるスクリーンを背景に「21世紀」を歌いました。歌詞の結びは「トウェンティファーストセンチュリー、又会おう。」それが、再会の約束を含めたファンの皆さんへの別れの言葉でした。

東京では一昨年、新日本フィルハーモニー交響楽団とのコンサートを行いましたが、最近になってようやく新たな形式のコンサートを日本全国に展開しようという動きが春の芽吹きとともに出始めました。かねてからリクエストをいただいていた皆さんには「お待たせしました!」の一言に尽きます。思えば、二十世紀に生きたわたしたちにとって二十一世紀とは夢のまた夢というイメージで、よくある宇宙映画の世界を思い描いていたものですが、さて今まさにその時代に腰を下ろしてみるとなんや、(なぜか突然関西弁になる)世の中ますます混沌として来ていて、いったいぜんたいみんなどこ行くの?と言いたくなるような状況です。

たしかに科学技術は発展し、コンピュータ、携帯電話などの普及率は上がって、さまざまな仕事の処理が便利になりました。その一方で、それを利用した犯罪が人々をおびやかしています。どんなものでも使い方次第では毒にも薬にもなるというのは、何世紀経っても変わらないものですね。

大事なのは何を置いても人間の成長なのだと痛感します。これからの地球を救うのは、大人たちのポジティブな行動とそれについて行く子供たち、そして新しく生まれくる命…。それらすべてが未来のためにあることをいつも願っています。それでは、コンサートでお会いしましょう。
(東京新聞夕刊 2006.4.17 掲載)

自然はすばらしい

五月に入って晴れた空がやけにまぶしい。新緑の木々が風に揺れて、さわさわと気持ちの良い音をたてている。それはある時波の音にも似ていて、ともすれば、私が住むこの地域は海の近い所にあるのではないかという錯覚に陥ったりする。

数日前は三〇度を越え、テレビはなんと海で遊ぶ裸の子供たちの姿を映し出していた。五月に海水浴?と目を疑ったが、ここ数年の“異常気象型めがね”で見てみると、たいした驚きではなくなる。

年齢が行けば行くほど、その昔のきちんとした春夏秋冬にこだわりがあり、「これは異常である」と認識してしまうのは無理もないが、体の方はもっと深刻で、半世紀もその動きに慣れているから、急な気温変化についてゆくには忍耐と努力がいる。その都度、時差ぼけのような状態になってしまう。

そんな危なげな足を地に着かせようと庭に出てみると、一昨年に植えたクレマチスが花を咲かせていた。あじさいにも花芽があった。そういえば、今年は木蓮もきれいに咲いていたなあ。低い枝に花が二つ。上から見るとまるで空中に浮いているかのようにみえる。「木」の「蓮」とは、よく名付けたもので、なるほどその姿はまさに蓮の花だった。植物たちはこの陽気が気に入っているといわんばかりにぐんぐん成長している。そして見るものに、生きている実感をあたえる。やはり自然はすばらしい。

空、海、風、雲、鳥、花、星などの世界は自分の歌の大事なエッセンス。人も街も時とともに変わっていくけれど、大自然はいつも同じふうにそこにあり、季節の色は毎年その中で、くりかえし現れては消え、消えては現れる。忘れてはいけないふるさとを思い出させるように。そして、その郷愁あふれる歌に出会うたび、私は「人として」生きることに気づかされるのだ。  (東京新聞夕刊 2006.5.15 掲載)

ドライな雨

雨をテーマにした歌はいっぱいある。初めて聴いた雨の歌は、洋楽ではカスケーズの「悲しき雨音」だった。

「リッスン トゥ ザ リズム オブ ザ フォーリング レイン…」

失恋の歌なのにマイナーではなく、リズミカルで、しかも切ない思いがよく出ている。アメリカンポップスはこういう創作がとても優れている。「ジメジメした気持ちは吹き飛ばそう」とでもいうような、大陸的な精神がここで息づいているのだろうか。

逆に日本では、雨をマイナーに表現することが定番?悲しみのどん底に向かって、どこまでも落ちてゆくような涙のイメージ。その状況は、もはやメジャーではありえない。そして、日本ではそれが好まれるようだ。

私が初めて書いた雨の歌は一九七二年の「雨」。「雨が空から降りてきてトタン屋根をたたいてる…」と始まり、「君がいつもひとりだから来たんだよ。まわりはみんなかわら屋根、ノックできないかわら屋根」と雨の言葉で結ぶ。この歌の中での雨は、とてもドライな役だ。

小さいころ、当時はまだ珍しい二階建ての家に住んでいた。東の窓からは新宿の小田急百貨店が見え、南の窓からは豊かな陽が差し込み、夏から秋にかけて、北の窓からは稲光が見えた。狭いが、開放感のある家だったのである。

その後、あたりは急速に二階建ての家が増え、いろいろな環境や景観が失われていったが、トタン屋根に降り落ちるポツポツという音や、さわさわという音、そして土砂降りの叩きつけるような雨音だけはいつまでも変わらずにあった。

はたして、そんな心情を歌に込めたかどうかは定かでないが、今も私の心を弾ませる「記憶の音」であることは確かだ。  (東京新聞夕刊 2006.6.12 掲載)

夫との“登山”

今回は夫の話を。

「もう出来てるよ」と、彼はテーブルの上に目をやった。今年、二〇〇六年のコンサートで歌う曲目が決まったのである。選曲、構成は夫の鈴木宏二。彼は九〇年代に私のコンサートの演出を手がけているが、いつもながら、良くできるものだと感心してしまう。それだけに限らず、音楽のことを聞くと間髪いれずに的確な答えが返ってくるから、今や自分にとってはなくてはならぬ存在だ。

彼のそんな特異性には、八三年に出会ったころから気づいていた。それは音楽の話題ではなく、何気ない会話の中にあった。型にはまった言葉のあやとりでなく、意外な方向に持っていく意見なので、次の番に返す言葉を考えるためそれまで使っていなかった脳のある部分が刺激されて、何やら話が終わるころには頭が活気づき、まるでおもしろいテレビゲームをやり終えたような満足感があったものだ。

それ以来ずっと一緒で、今に至る。もともとはピアニストだが、しだいにプレーヤーとしての持ち場を離れ、マネージメント、ステージ演出、レコーディング制作などに専念するようになった。歌手としての私やこれまで書いた曲のことを誰よりも理解し、すべて安心して任せられるただ一人の人材でもある。仕事と家庭のバランスをとりながら、急がず一歩一歩前に進んでゆくことが大事。いつかそんな考え方で生きるようになっていた。そして、それはたしかに理想的な人生と思う。

結婚とは登山のようなものではないか。現在地点はマリッジ・マウンテンの五合目を越えたあたり?ここでふぅーっと大きくため息をついて下を見ると、街景色が遠い昔のようにかすんでいる。最終的に、結婚とは人間どうしが同じ屋根の下で何十年も共に生きる大イベント、男と女が暮らしながら人間愛を学んでゆくことなのだと信じている。いつか頂上でライジング・サンと会うために。(東京新聞夕刊 2006.7.10 掲載)

反戦への目覚め

夏のこの時期になると、広島、長崎の原爆の日や終戦記念日があり、あらためて戦争について考えさせられる。

じりじりと暑い外気を避けて家にいると、まるで時が止まったかのように、奇妙な静けさに包まれて、そこに市役所からのアナウンスが空にこだましながら聞こえてくる。一分間の黙祷だ。戦後に生まれたことで、実感がないままに育ったが、一九八五年に広島平和記念公園を訪れた時に強い衝撃を受け、それから反戦意識に目覚めた。

生々しい残骸がそのままになっていることは、そのぶん心の傷が癒えないかもしれないというのが第一印象だったが、そんな風に戦争を知らない者たちが「二度と繰り返してはならない」と心を痛め、平和を学ぶことにつながる故に、これからもずっと残ってゆくべきだと今は思う。この世から戦争という文字がなくなる日まで…。

コンサートのリハーサル前の空き時間、私は、観光目的の軽い気持ちでそこに向かった。記念碑のあちこちには折り鶴がいっぱい飾られていて、そのうちの一つ、学徒のところで足を止め、コインを入れるとアナウンスが聞こえてきた。そして、悲惨な状況を伝えるその声は、心の壁を突き破るが如く私に侵入したのだった。涙があふれてあふれて、まるで悲しみが心に穴を開けたような感じだった。それからはいったいどこをどうやって通ってホールまで行ったのかも覚えていない。

そんな重い気持ちを引きずりながら、翌日電車移動で次の街に向かう途中、いつものようにペンをにぎると、詩の断片が聞こえてきた。それは英語で「Wind and Roses」(風とバラ)。「~風に吹かれて そのつぼみ目覚め ほころびるバラ」と続いた。イメージとしては、春が熟したようなころのぽかぽかとやさしい季節、その幸せだった昔を愛おしむ心の情景。完成したのは、東京に帰ってからだが、自分が書いた曲の中では極めて現実から離れた、特別な存在になっている。(東京新聞夕刊 2006.8.14 掲載)

旅行

二〇〇六年もあと四カ月足らず。今年の夏は、旅行に出かけることもなく、自宅で過ごした。ここ数年のパターンである。

今は何かとやることがあって、日本に落ち着いていたいという気持ちもあり、静かな日々を送っているが、かつて、デビューから十一年続いた海外レコーディングの合間には、近隣の国々に足を伸ばし、ずいぶん旅をしたものだ。

アメリカはロサンゼルスに始まり、サンフランシスコ、ラスベガス、ニューヨーク…。フランスでレコーディングの時は、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイス、イタリア、イギリス、エジプト、モロッコ、ケニア、セーシェル。コンサートでは、香港、中国、マレーシア、インドネシアに行き、それぞれの持ち味を堪能した。

先月、夏も真っ盛りのころ、初めてカナダに行った義母が、ナイアガラの滝を背景にして撮った夫婦の写真を送って来てくれた。そこには、大自然のなせる業とはこのことではないかと思うほどの、幼い少女に帰ったような義母の顔があった。

この地球上に豊富にある壮大なランドスケープ。その一片に触れるだけで誰もが感動し、その驚異にひれ伏してしまう。この星に生を受け、育てられ、住まわせてもらっているのだという感謝の念でいっぱいになる。海だって山だって、そこに行けば力がわいてくる。そして、私たちはその恩恵に「ありがとう」と思うだけで、通じ合う何かを感じることができるのだ。

実際に旅行には行けなくても、近ごろはハイビジョンというクリアな窓があるから、ドラえもんの「どこでもドア」的な世界を楽しんだりしている。特に一度訪れたことのある国は懐かしく、その空気やにおいを呼び起こしながら見ると、まるでその地を本当に歩いているかのように感じるから面白い。今は昔ほど外国に行きたいという願望はないが、いまだ行ったことのない場所を訪れたなら、きっとまた新たな感動があるに違いない。  (東京新聞夕刊 2006.9.11 掲載)

作曲人の醍醐味

人生には思いも寄らないことが起きる。自分の音楽がアジアに広がったこともその一つ。曲を書き始め、歌い出したころからその時まで、外国で聴かれるようになるとはみじんにも思わなかった。今回は作曲人としての私のお話。

初めて耳にしたのは一九七九年。香港発の情報で、「残り火」がポーラ・チョイという女性歌手によって歌われ、現地で知られるようになったということ。しばらくして送られてきたレコードを聴くと、ふくよかな低音で情緒あふれる歌唱が、もはやカバーというレベルではなく、彼女のために作られた曲と言っていいほど歌いこまれていた。

もともとこの歌は「さよならだけは言わないで」に続く、いわゆる歌謡ポップスの第二弾。勢いがあり、エネルギッシュだが、内容は比較的技巧を使った仕上がりになっている。ヒットソングにありがちな傾向である。そういう歌は悲しいかな、世のファンの気持ちとは裏腹に、コンサートで歌う機会が少ない。

もちろん作っている時は、嫌々なわけでは絶対ないし、むしろそういう曲作りを楽しんでいたくらいだ。だから結果的に、ほかの歌手がそれを「魂に触れる」ほど好きで、しかも作家より適切に表現していることがこの上なくうれしかったのだった。

それ以来、自分の歌が、他の歌手の世界に美しく染まった時、とてつもない恍惚感が押し寄せて来て、頭の中が真っ白になってしまう。例えば、石原裕次郎さんに書いた「思い出さがし」のように。この歌は石原さんにリクエストされて作り、贈った歌だから、なおさらに世界が確立されている。

そういえば、ポーラさんと石原さんには共通点がある。それは、味のある声をもっているということ。個性的な声、歌唱、フィーリング、繊細さ…を兼ね備えた歌手に出会う時、私は尊敬の念とともに、新たな歌が自然にわき出てくるのを感じるのである。  (東京新聞夕刊 2006.10.23 掲載)

特別編成で楽しいライブ

十九日は、二年ぶりの東京でのコンサート。有楽町にある千五百席のホールが会場だ。

今回共演するのは、ピアノとアレンジの大谷和夫さん、ベースの長岡道夫さん、ドラムの渡嘉敷祐一さん、ギターの大久保明さん、サックスのボブ・ザングさん、そして小池ストリングスのみなさん。この日のために特別に集められたメンバーだ。

このような比較的大所帯の編成は、一九八四年のライブ「熱いさよなら」以来である。でも、その時と大きく違うのは、基本的に個人個人のインプロビゼーション(即興演奏)もある、フレキシブルなセッションバンドだということ。微妙な呼吸を感じとりながら、音を組み立てていくのは、まさに一回だけのテイクを演奏するライブならではの醍醐味だ。

これを望んだのは大谷さんだった。ただ、歌のバックを務めるのではなく、ステージ上にいるみんなも演奏を楽しめるコンサート。こんなのやってみたい-と、ピアニストとして参加を求めた直後に情熱的なオファーがあった。このアイディアに私も同調し、その時点でいいものができると確信した。それは、バンドのボーカル担当という私も登場する、楽しいものだった。

昔、ジャズをよく聴いていたころ、自分もそんな風に、ミュージシャンと掛け合いをしながら歌ってみたいと思っていた。レコーディングでは、七〇年代のアルバムの中にそんな傾向のものがある。七五年「マユミティ」、七七年「蒼空」あたりがそれで、今聴いても、音と音が仲良くしていて、気持ちがよい。つまり、前向きに演奏された音楽には魂が宿っていて、いつまでも色あせない美点があるということだ。

「2006年秋から~」のコンサートは私の一生を通じて、もっとも印象深いもののひとつになるだろう。(東京新聞夕刊 2006.11.20 掲載)

クリスマスに歌う

子どものころ、クリスマスイブの十二月二十四日は胸躍る日だった。

イチゴと生クリームの丸い大型ケーキに、赤ワイン。食卓にはごちそうが並べられ、皆幸せな気持ちになったものだ。

本場の国々では、クリスマスは極めて厳粛で静かなものらしい。私たちから見ると、部屋に飾られた大きなクリスマスツリーと、その下に並べられたプレゼントの数々がとても印象的で、誰もができるものではないぜいたくなパーティーという感じがする。

本当は、宗教的な意味があるからこその年中行事なのだが、私たち日本人のほとんどは、そんなことなど頭にない。でも、魅力的なのだ。家族で過ごした、あの、温かく包まれるような平和な時間を私は忘れたことがない。それだけでも、「愛」を唱えるジーザス・クライストの遺志を受け継いでいるような気がするのだ。

十九世紀前半に書かれたという「きーよしー、こーのよーるー…」や、「真っ赤なお鼻のトナカイさんは…」「もろ人こぞりて」などのクラシカルなクリスマスソングは、その思い出とともに懐かしく聞こえてくる。洋楽では、一九四〇年代に書かれた、大人になってから振り返る夢のようなクリスマス、それをクリスマスカードに綴り、相手の幸せを祈るという、今の自分にぴったりの「ホワイトクリスマス」。

そして、現代のポピュラー・クリスマス・ソングの中では、異質な、ジョン・レノンの書いた「ハッピー・クリスマス」。個人的なラブソングが大半を占める中で、ゴスペルの世界が感じられるメロディーラインと、すべての人に、分け隔てなく送っている「平和のメッセージ」が、聴く人を思わず一緒に歌わせてしまう、という大合唱曲だ。心を閉ざしがちな世の中にあって、オープンになろうと呼びかけるようなこの歌は、今の時代にとてもよくフィットしている。  (東京新聞夕刊 2006.12.18 掲載)

味わい深さ届けます

一年の計は元旦にあり。だいぶ日が経って、もう一月も終わろうとしているが、今年初めの執筆なので、抱負などをつづっていきたい。

大体、一月というのは自分にとって何かと行事がある。父の命日、息子の誕生日、私の誕生日。まあ気が引き締まって、年始めにふさわしいかもしれないが…。でも、特別な祝いのパーティーをやるわけではなく、ただ、花を買うということだけ。花屋に行って、すがすがしい香りを楽しむよい機会にもなっている。

一九九五年に花粉症になってから、二月から四月の間はかなり神経質に日々を送らねばならないから、花の香りどころではなくなる。今のうち、たっぷりと吸い込んで、一年の英気を養いたい-と言いたいところだが、すでに花粉が飛んでいるのか、「今年もよろしく」とばかりに、鼻からこんにちは。私は答える、「クション!」。やれやれ、とんだごあいさつ。

去年のことを言うと鬼が笑うなら、笑わせといて、十一月に始まった新境地のコンサート、「二〇〇六年秋から~」についてお話を。「To be continued」という意味あいからつけたタイトルだから、今年もあるということ。今は、その第二作を作る前に、その時の録音CDを聴いて、反省をしたり、すごくよかったところなどをチェックしている毎日。マイナス点を0以上に、また、プラス点をそのままキープすることで、よりよいものが期待できるだろう。

それにしても、コンサートっていいなあ。客席からは、「またやってー」という、男性の黄色い?声がかかっていた。それに気をよくしたわけではないが、ますます拍車をかけられたことは確かだ。えりすぐりの材料をつかった特別料理を楽しむ…そんな味わい深いコンサートをお届けしたいと思っています。できあがるまで、しばしお待ちを。Happy New Year!  (東京新聞夕刊 2007.1.29 掲載)

この素晴らしき世界

ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」を、初めて歌った。英語の歌を公的に歌ったのは、何年ぶりだろうか。

とはいっても、デビュー前はそれしか歌っていなかったのだから今さら言うことでもないが、果たして、日本人が母国語以外を歌うとき、自分なりに感情移入をしたとしても、ネイティブの耳にはどのように聞こえてくるのか。一九七七年、フランス語のレッスンを受けてレコードを発売した後に、感じた大きな疑問がそれだった。フランス人の友人は「日本語を歌うあなたが好き」と言い、また、イタリア人は「フランス人が歌っているようだ」と感動し、はたまた中国人は「フランス語の歌は素敵」と、聞きたがった。その体験が、自分のアイデンティティーを問わせるきっかけとなり、結局、日本人イコール日本語いう原点に戻っていった。

私たちは、自分の母国語以外の言葉をサウンドとして聞く。実際、言葉には奥深い意味があるから、ものにするにはかなりの修行を要するのだ。大事なポイントは、どれだけ歌の内容に共感するか。次に百パーセント自分の世界にできるか、だと思う。発音は必要以上にこだわるものでもない。かえって歌の味がなくなる。

初期に歌っていた「メドガー・エバース・ララバイ」は、人間の悲哀を美しく、シンプルなメロディーで描いている。ジュディ・コリンズの歌集を見て知り、心を打たれてギターで歌うようになったのだが、不思議なことにそれは、言葉を超えた世界で自然と自分のものになった。まだオリジナルがない期間、ちまたでは知る人ぞ知る五輪真弓の代名詞的存在だったのである、オッホン!自己評論おわり。

さて、というわけで「この素晴らしき世界」。どれほど自分のものになるかわからないが、当分はコンサートなどで、歌ってゆきたい。特に「子供は私たち大人よりずっと多くのことを学んでゆく」という詩の部分がいい。  (東京新聞夕刊 2007.3.5 掲載)

新たな自分へのジャンプ

三月は子供の卒業、高校入学の準備などがあって、あっという間に過ぎた。学校に提出する書類に、保護者として名前を書くたびに厳格な親にならねばと、急に背筋が伸びる。

元来私は、学校というところがあまり好きではなかったので、人一倍緊張してしまうのだ。特に小学生の時は窮屈で、下校時刻ばかり気にしている子供だった。中学に入ってからはあることがきっかけで、大きく変わった。

それは、教壇で発表文を読まねばならないという日のこと。私は登校途中に、いつも通る地下鉄の前に束で置かれたチラシを一枚取り、その中の小話を読むことにした。内容は、幼児はなぜ転ぶのか、というようなものだったが、驚いたことに読み始めるとクラス全体が大爆笑となった。しかも、一回きりでなく、一節読むたびに笑いがわき起こったので、何がそんなに面白いのか、あっけにとられたまま、ついに私自身は最後まで笑うことはなかった。

しかし、それ以来一躍「面白い子」の部類に属し、長年自分を覆っていたバリアのようなものがはずされて、しだいに学校生活を楽しむようになっていった。おそらく、それは本質だったのだろうが。自分らしさとは、ひょんなことから発見できるものである。あえて探しに行かなくても、日常生活の中で空気を吸うが如く見つかってくる。生まれつき持っているものだから、何かの刺激で簡単に表面に出てくるというわけだ。

私には特にその傾向がある。高校時代、再び学校生活が退屈に感じ始めたころだったか、たまたまみんなの前で歌って自分の「歌声」に目覚めた。そしてそれが私の「道」となった。振り返れば、思い悩んだことは数え切れないほどある。しかし、それを踏み台にできた時、いつもそこには新たな自分へのジャンプが待っていた。  (東京新聞夕刊 2007.4.2 掲載)

時を経てわかること

一九七〇年五月八日、ビートルズの最後のアルバム「LET IT BE」が、英国で発売された。解散へと向かう、ぎくしゃくとした人間関係の中で書かれた「The long and winding road」がその中に収められている。

十代の時はじめて聞いた印象は、壮大なストリングスとホーンのサウンドにのった美しいメロディー、というもので、作品に込められた悲しみには、それほどのショックを受けることはなかった。むしろ、それぞれの道を行く時が来たのだろう、と客観的に見ていた。

ところが、先日たまたまラジオでかかっているのを耳にした時は、歌詞ばかりが響いてきて、メロディーは訴えるように悲しく、あまりにも残酷なシチュエーションの主人公に、同情してしまうくらいだったのである。「君のドアに行くまで、消えることのない、長く曲がりくねった道がある。たどり着くためにいろんな方法を試みたけれど、結局またひとりここに戻されてしまう…」。何となく、これは現代で最も浮き彫りにされている「遮断されたコミュニケーション」を嘆く世界のようでもある。

歌は常に世相を反映し、その中に生きる人びとの心に強く訴えるもの。古い歌も、時を経て「その時」が来れば、まるで長い年月をかけて解読するかのように、歌の深みに触れることができる。あのころわからなかったものが今はわかる。

実は、このようなことが、「私の中で」毎日のように起きていて、時にはそれが生きる楽しみにもなっていたりする。年はだてにとるものではない、とひとりうなずく。そういえば、そのDJがビートルズの曲をかけたあとに言った言葉がなぜか新鮮だった。
「ビートルズの発音を間違える人がいるけど、くれぐれも、ビアトルズと読まないようにね」(東京新聞夕刊 2007.5.7 掲載)

持てる限りの力で

今年の秋に十一年ぶりのオリジナルアルバムを発表することになった。あー、なんて久しぶりなのだろう。その間、曲を書いていなかった、ということはなく、実際のところ、思いつくままに書いたものが数曲ある。一度所属レコード会社にプレゼンしたことがあるが、答えは「これをどうしたらいいんでしょうか…」

企業とのタイアップがなければ歌を出せない状況になっていた。近年この業界も不況の波に押されている。かつて、「早く出しましょう」と急かされた時代がまぼろしのようである。もちろん、自分の生き方を優先して、裏通りに引っこんでしまった結果だともわかっていたが。

おそらく、もうアルバム製作はないのではないかと思っていたそんな矢先、今年の初めに「出しませんか?」という申し出があった。これにはうれしかった。別段、派手にアピールするでもなく、ただ常に持てる限りの力で作り続けていたいというのが本当の気持ちだからだ。

同じ時期に全国十数カ所をまわるコンサートツアーがあるので、その時にこの湯気の出そうな新作の中からも選曲して、フレッシュな気分をファンの皆さんとともに味わいたいと思っている。アルバムの内容は今までにない、さまざまな要素が含まれた、バラエティーに富んだものになりそうだ。特別ゲストもお招きしている。今からわくわくしてくるようなレコーディングである。

「All Songs Written by Mayumi Itsuwa」のアルバムを何枚も作り続けてきた。個性的な自作ワールドもよいが、デビュー以前のように、他の作曲家による歌も歌いたいと思っている。数え切れないほどの歌の中から、自分が歌える名曲をみつけることが日々のワークにもなっているが、思ったほど簡単ではないことがわかった。世界中に「いい歌」はいっぱいある。しかし、自分流になる歌は数少ない。(東京新聞夕刊 2007.6.4 掲載

ドビュッシーの息遣い

今は亡き多くのピアニスト兼作曲家たち。その作曲家が自ら弾く演奏をすべて聴くことができたら何て感動的なことだろう。

私たちはたくさんのクラシカルミュージックを知っている。楽譜が残っているから、後世の音楽家によって受け継がれながら人々の耳に届く。私もそうして教えられてきた。これもまた素晴らしいことなのだ。紙とペンのおかげで、命に潤いをもたらす音楽が健在になっているのだから。そのうち、録音技術が進んで、音源なるものが登場してからはもう安心。消去さえしなければ、どんな音楽でも残ってゆく。数百年前からあれば、モーツァルトやベートーベンのピアノを毎日聴くことができたのになあ、とはるか昔に思いをはせる。

ケーブルテレビには、クラシックチャンネルがあって、あまり見ることのない貴重なプログラムが時々放映される。ドビュッシーを特集した番組では、彼の弾くピアノを流していた。うそ!と、思わず画面の方に走り寄り、音量を大にした。少し雑音が入っていたが、それよりバックに聞こえる教会の鐘の音と鳥の声が感動的だった。まるでドビュッシーの息遣いが聞こえてくるようで、実際、音と音の間に彼の存在が感じられたのである。私の胸は高鳴った。

考えてみれば、いにしえの偉大な人物も、私たちと何ら変わらない生活を送っていたのだろうが、伝記を通して知るだけに、つい偶像化してしまいがちだ。モノクロのあせた写真をみると、その目は何かを語っている。それが何かわからないから、あれこれ想像する。

もしかしたら、ただ胃腸の調子が悪いだけだったのかもしれないのに、限りない悲哀感を感じてしまったりする。それは、みな同じ人間だから。さまざまな人生の断片から創造された、至上の音楽。今、あらためて大いなる敬意と祝福をおくりたい。  (東京新聞夕刊 2007.7.2 掲載)

味わい深いCD製作

このところ、レコーディングの日々が続いている。相変わらず楽しい作業だ。音を何層にも組み立てて、一つの世界を創り上げる。今回のアルバムは十一年ぶりとあって、さまざまなバリエーションで構成される。

新しいディレクターの望みである。アレンジャーは二人。それぞれの異なった持ち味を生かし、力を発揮してくれている。実際、曲を作るのは自分だが、そのあとからは多くの人がかかわる。

今まで、何人かのアレンジャーに巡り合ってきた。デビュー前のコンサートアレンジなどを手がけ、ファーストアルバム製作のため、アメリカまで同行した木田高介。L・Aでのレコーディングに何度か参加したデビッド・キャンベル、パリに拠点を移してからはミッシェル・ベルナルク、「さよならだけは言わないで」「恋人よ」など、日本的な要素を含んだ船山基紀…。私の歌を盛り上げてくれた人たちだ。事前の打ち合わせはするが、最終的には彼らの感性に委ねることになるから、スタジオに入り、初めてその音を聞く喜びは、子供がプレゼントをもらう時に似ている。一本一本の糸で紡がれて完成する素敵な織物のように、一点ものの味わいがそこにある。

また、たくさんのミュージシャンたちにも出会ってきた。キャロル・キングやジェームス・テイラーらが活躍中の七〇年代初頭にアメリカに行った時は、そのパワーとセンスに圧倒された。そして、ストリングスの壮大かつ表現力豊かな音色は、私の中にある音楽への意欲をかきたてた。それまでギター一本で歌うに事足りていたから、自分の声やメロディーがストリングスと非常によく調和することなど、知るよしもなかった。しかし、それ以降、ストリングスなしの音楽創りは考えられなくなっていった。今の自分にとって、CD製作とはまさに夢が現実になるもの、といえるだろう。  (東京新聞夕刊 2007.8.6 掲載)

都会に森林があったら

八月はすさまじい暑さに見舞われて終わった。天気予報によると、三〇度台は九月に入ってからも続くらしい。炎天下に置いた車に戻った時、表示されていた温度は四三度。「Oh My God!」思わずつぶやいた。のどの渇きも尋常ではなく、ある日、青山通りを走りながら、ひたすらアイスクリームのありそうな喫茶店を探した。夏でもできるだけ冷たいものを飲食しないよう心がけている胃弱な私には、ここ数年なかった異常行動である。

神宮外苑は花火大会で夕方から人が多くなっていた。駐車場に車をとめて、外に出ると、自動販売機の前には、いらいらしながら待つ人の列ができていた。みんな同じね、と思いながら通りに沿って北方面に歩いてゆくと、一軒の喫茶店があった。そのメニュー看板に「-パフェ」と書かれていたので、これはきっとあるに違いないと期待して入ったのだが、残念なことに目当てのアイスクリームはなかった。

それでも店員たちは、客の注文に柔軟な姿勢で、一寸の戸惑いもなく、すぐにつくってくれたので、感謝感激。やれやれ、やっと体温が正常に戻ったような、涼やかな気分になり、少し並木道でも歩いてみようかと思いきや、時間がないことに気づいて、久しぶりに見るイチョウ並木をカメラにおさめ、仕事場に戻っていった。

ところが、あとで写真を見てみると、何とそこには、曇った空を背に夏バテしたような木々が写っていたのだ。息切れしているのは人間ばかりではない。都会の地面はほとんどアスファルトで覆われていることもあって、いわゆるヒートアイランド現象につながる。

現に、わずかばかりの林でも、そこを抜けて吹いてくる風はひんやりしていて気持ちがいい。土の効果ともいえるだろう。もし、巨大な森林が東京のど真ん中にあったなら…。都会とて人の住む場所。砂漠の中のオアシス…。今生き物にとって、それこそが必要なものなのかもしれない。(東京新聞夕刊 2007.9.3 掲載)

新境地を見つけた!

十月三十一日に、いよいよニューアルバムが発売される。タイトルは「Welcome」。一九九六年二月に発表した「二十一世紀」以来のオリジナルアルバムである。

十一年前、私はそれまで書いたことのない新しいタイプの歌づくりを目指して、アルバムのための作曲とコンサート活動を休止することにした。その時代の新境地は「風よ」で、その中の「星よ…世界中を照らしながら、瞳すべてにかがやきを」というフレーズが、今回のアルバムに引き継がれている。

新曲の「幸せの旅人」には、それを受けて大きく飛躍する自分がいて、今までにない新しいタイプの歌といえる。他にも、派手なロックの「チープ プライド」や、パリで結婚式をあげた時にインスパイアされた「あなたと共に」、真弓的バラードの「波」などがあるが、初試みの日本の歌カバーでは、「誰もいない海」と「愛燦燦」をチョイスした。調べられる限りの歌をチェックして、現段階でふるいに残ったのがこの二曲で、自分と相性が合い、歌っている人を意識することなく、ただ歴史的歌集をひらきながら、歌全体の完成度と普遍度で選び出した。

特に「愛燦燦」は、小椋佳さんと一緒に歌うことも実現し、宝石のようにきらきらと輝くニューワールドに仕上がった。彼が「雨…」と歌い出した時の感動が、今も忘れられない。歌の表現力では作者の右に出るものはないということをあらためて実感した。作品に詩人のエッセンスを吹き込んでくれた小椋さんと名歌に心から尊敬と感謝を。洋楽では、コンサートで歌っている「What a Wonderful World」を収録。それはステージバージョンの「煙草のけむり」「時の流れに」「リバイバル」とともに、会場に来てくれたお客さんへのプレゼントという気持ちもこめて再録したものである。  (東京新聞夕刊 2007.10.22 掲載)

明日もまた、頑張ろう!

近ごろは例年にない忙しさで、コンサートの歌が自分の体の周りをぐるぐると渦を巻くように聞こえる毎日である。

CD同様、約十二年ぶりの全国十カ所ミニコンサートツアー。昨年のように、大阪、東京だけではないから、ステージが終わっても、気持ちを緩めることはない。

初日前日の十一月六日、東京駅から、新潟に向かった。前乗りひとり旅である。上越新幹線「MAXとき」は快適だった。平日でも、夕方の時間ということもあって、車両はどこも人が多かったが、二階のグリーン車に乗り込むと、平安な空気が流れていて、そこに、品の良い初老の車掌さんも加わり、まるでヨーロッパの電車の旅でもするような心地になった。

翌朝、ホテルの窓から差し込む、すがすがしい朝の光に目覚めた。東の空から昇った鮮やかな太陽は、ツアーの初日を祝福しているようで、うれしかった。

思わずカメラを手にとり、シャッターを押し、その写真を添付したEメールを、早速、高校一年生の娘に
"Wake up call"のつもりで送ったところ、思いがけず昼ごろ返信メールが来て、「頑張れ!!!」の文字と、「ファイト!」付きの可愛い動物キャラが大いに私を励ましてくれたのである。

初日の締め付けられるような緊張感は、私はもちろん、ミュージシャン、スタッフ…そこにかかわるすべての人たちを取り込み、それは観客をも巻き込んでしまうというのが常である。

当日も、その張り詰めた空気の中で、演奏は始まり、それでも、お客さんと交流するうちに、少しずつ解放されてゆく心地よさも感じながら…最後は拍手喝采の中で、幕が下りた。新潟の皆さん、ありがとうございました!

そのあとは、おそばを食べながら、みんなで反省会。「明日もまた、頑張ろう!」と。(東京新聞夕刊 2007.11.19 掲載)

マイペースを忘れない

月めくりカレンダーが最後の一枚になった。その写真を見て、意表をつかれた。

十二月というと、何やら慌ただしい、落ち着きのない月というイメージが強いことから、ページ全体がさまざまな色や、季節の行事を表したもので満たされているかと思ったのだが、それは、青みを帯びた雪原と、その上に立つ一本の落葉樹、そして、空に浮かぶ夕焼け雲だけというシンプルな作品だった。

一瞬私の心からすべての雑念が消え、静寂に包まれた。こんな場所で暮れてゆく年を見送ることができたら、さぞかし新年も清らかな気持ちで迎えられることだろう。争い事や心配事のない世界で…。

かつて、親の世話になっていたころは、まだ少しは夢のあるときで、二学期が終わり冬休みが来てクリスマス。親しい友達に贈るプレゼント探し、ショップであれこれ見繕う楽しさ、華やかな包装紙にファンシーなリボン、それだけで胸がときめいた。ああ、十代!そこが人であふれていようが、店のドアが開くたびに冷たい風が吹きこんでこようがおかまいなしだった。

今は違う。人でにぎわう場所はできるだけ避けたいと思うようになり、寒くなれば風邪をひかぬかと身体を気遣う。ああ五十代!「十二月は静かに過ごしたい」と思うようになったのは五年ほど前からで、その理由のひとつは、大みそかまでに今年の整理をしなければと、義務めいた習慣に押されてしまい、無意味に急ぎ、毎年体調を崩しがちだったからだ。

とはいえ、人が集まってくるコンサート会場に歌いに行く気持ちは昔も今も変わらない。そこに楽しめる音楽があり、聴きに来てくれる人たちがいる限り、私は出かけてゆく。世間の大波にのみ込まれないようにするには、自分本来のペースを常に忘れないことだろう。そして、年末年始の行事も自分なりのritualで決めればいい、と思う昨今である。  (東京新聞夕刊 2007.12.17 掲載)

“こころの歌”の原点

今年の仕事始めはNHK「プレミアム10(絆、被災地をつなぐ“こころの歌”~阪神大震災から13年)」だった。番組は、天災に見舞われた場所で歌われた歌の特集で、何年たっても忘れられることのない悲しい記憶と復興への思いの中で、生きてゆこうとする、人々の力強い精神が息づいていた。

「心の友」(KOKORO NO TOMO)は、一九八五年、長男が生まれた年に、インドネシアで大ヒットした。初めての育児で睡眠不足が続いていたある日、新聞社から突然その一報が入ったのである。私の開口一番は「えっ?、何で?」だった。別に寝ぼけていたわけではない。

この歌は、どちらかというとあまり目立たない、アルバムの中の一曲だったので、それを聞いたときはまるで人ごとのように反応が鈍かったことを覚えている。事件の発端は、ひとりのインドネシア人のラジオ局関係者が来日したことで、彼は私のコンサートを見て、アルバムを手に入れ、帰国してから番組の中で曲を流したというものだった。以来、現地では二十余年たった今も歌われ続け、国家の次に位置する歌となっている、というから驚きだ(自分で言うのもおかしいが)。

インドネシアには、翌年の八六年、ジャカルタでコンサート、後にテレビの国際放送に出演するために一度行っているだけで、特に彼らと深く親好を重ねた日々はない。だから、先日のテレビで、日本語で歌う彼らの声を聴いたときは感動で胸が震えた。映像の中で、若い女の先生が子どもたちに話していた。「悲しいとき、疲れたとき、災害に遭ったとき、ひとりでいて寂しくなったときでも、友達はいつもそばにいるんです」と。心の中にいる友達…そういえばこの詩を書いたきっかけも、私自身初めて心友と呼べる人に出会ったことだった。  (東京新聞夕刊 2008.2.4 掲載)

祖の地で思い新たに

「五輪」という名字。今やすっかり身に付いているが、子どものころはずいぶん悩まされたものである。

小学校入学の日、担任の教師から「これは何と読むのかしら…ゴワさん!」と呼ばれたときに、恥ずかしくて顔から火が出そうになったことが今でも忘れられない。それからというものは、人と違うことに嫌悪感をおぼえるばかりで、そのルーツを知ろうとは少しも思わなかった。

ところが、一九八四年に結婚して姓が変わったとき、夫の「仕事では継続されるのだから、先祖を忘れてはいけないと思う」という助言に、父の故郷である長崎県の五島列島へと導かれることになったのである。

長崎空港から飛行機で福江まで行き、そこから海上タクシーに乗り継いで二十分。波しぶきを浴びながら、ようやく名前の発祥地である久賀島の五輪村に着くと、地元の人たちはとても親切で、まるで昔から知っているようなまなざしで私を見た。彼らの案内で、小高い丘の上の墓地に行くと、「五輪」の姓が刻まれた墓石がいくつもあったので、すこぶる驚いた。ここでは、珍しく何ともない名前なのだ。

カトリック教徒らしく、かわいらしい花々で飾られたその場所にしばらくたたずみ、時折吹くさわやかな風をほおに感じながら、いにしえの家族に思いをはせた。時が過ぎても、子孫は次の時代を受け継ぎ、終わることなく今日まで来たのだ。そう思うと急に胸が熱くなった。初めて味わう感覚だった。

教会のあるこの小さな村で暮らした人たちを、理由もなく身近に感じたのは、末裔であるからこそだろう…。

彼らの遺伝子と母方の遺伝子で構成されたこの身体。自分だけの持ち物ではないような気がしてきた。ありがとう!先祖のみなさん。この声をくれたことも感謝します!(東京新聞夕刊 2008.3.10 掲載)

命を感じる季節

優しく、おだやかな春の世界にいざない、美しい時間をくれる「桜」。その出番が終わると、あとはまるで姿を隠すかのようにひっそりと自然の中にとけ込む。

アルバム「パーソナル」に入っている「めぐりゆく季節」は「桜」をテーマに、夫の祖父がその季節に他界してからしばらくして書き上げたものだ。歌の舞台となった家の近くの道を通ると、華やかな無数の花々を頭上に感じながら、「死」という何とももの悲しく、それでもその決定に従わなければならない、あきらめにも似た感情がよみがえってくる。

葬式の日の朝、私は新聞を読む気がしなかった。なぜなら、ニュースや事件を伝えるテレビ番組などはすべて、もはや知る必要のない非現実になっていたからである。そして、バスの中でも何かが違っていた。普段は他人に触れることに抵抗さえ感じてしまうのに、その時はとてつもなく温かい命のぬくもりを感じたのだ。生きているということは何てうれしい思いやりなのだろう。移りゆく窓の外の景色を見ながら、しみじみ思った。

八歳の息子を連れて葬儀に参列した。彼は初めての体験で一体何が起こっているのか分からない様子で、誰もがみなものも言わずにただうつむいているのを見て、自分が何とかしてあげなくてはとでも思ったのだろう。突然、「元気だそうよ」というようなことを大声で口走った。私は驚いたが、それよりも人々の顔に笑みが浮かび、一瞬和やかな雰囲気になったことにはもっと驚いた。私はなぜかうれしくなった。その無垢な心の持ち主は、この特別なセレモニーを「自然界における、ひとつのフィナーレ」と受け止めていたのかもしれない。  (東京新聞夕刊 2008.4.7 掲載)

あらためてクラシック

今年に入って、クラシックのコンサートを二回聴きに行った。今まで洋楽のロックやジャズのコンサートには出かけたことがあるが、ここに来てなぜかクラシック音楽が好きになり、わくわくしながら切符を買った。いつもは自分が舞台側にいるので、あらためて客席に座ることも新鮮だった。

そのうちのひとつはアンドレア・ボチェッリ。彼を知ったのは、あるヒーリングイベントでのことで、その歌声はエネルギーにあふれ、人々をまるで天に昇るような心地にしていたのである。クラシックのテノール歌手だけにおさまらず、カンツォーネ、ノスタルジックな民謡さえ感じる、層の厚いその声に私はすっかり魅了され、すぐCDを手に入れた。

曲目を見ると、サラ・ブライトマンとのデュエットによる「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」があったので、初めて聴いたのではないことがわかった。それからしばらくして、彼のドキュメンタリービデオ「トスカーナの空」をテレビで見た。イタリアのトスカーナ地方で生まれたというボチェッリは、その美しい自然の中に子どものころの思い出があふれていると言う。そして、また「パバロッティ・アンド・フレンズ」というチャリティーコンサートで歌った、雄々しいばかりの「ミゼレーレ」と、語りかけるような「千の月と千の波」に感銘を受けた。

その彼が今春、日本公演を行うという事を聞いて、何をおいても行かなければと思い、実現したわけだ。二時間近いステージの中では三人の共演者たちの持ち時間もあり、ボチェッリにひたるとまではいかなかったものの、特に聴きたかった曲の一つ「メロドラマ」のイントロが始まったときには、思わずわれを忘れて熱い拍手を送った。(東京新聞夕刊 2008.5.12 掲載)

生音が蘇るアナログ

このごろ、アナログレコードを聴き直している。CDというデジタル盤に変わってから、押入れの奥に何年も眠っていたアルバムたちを、再び前列にそろえた。

ちょいと人さし指を立てて三十センチの大きなレコードを取り出す感触が懐かしい。それと一緒にプレーヤーも出したのだが、長い年月に劣化していて、何回かかけるうちに動かなくなってしまった。

新たにその機器を手に入れようと、果たしてあるかどうかわからない状況で、不安なままにネットで検索すると、最近出たばかりの新作があったのでそれを購入し、同時にチューブアンプも手に入れた。店頭で見ることはなくなっても健在だったことにほっと胸をなで下ろし、その裏でバックアップしているアナログ愛好家達がたくさんいることもわかった。

いい音を知っているものは、いい音に飢える。いい音とは何だと聞かれれば、自分にとっては生音だと答える。イフェクターで処理された気持ちのいい音も、空気を含んだものがいい。私は何度か、レコーディングの際、ミュージシャンが奏でる生音に鳥肌が立ち、後に商品化された時に落胆することがあった。生音を最大限に生かすことが今なお課題となっていることは確かだろう。

デジタルサウンドもいいが、音質、音の情感、情景を残しているのは今のところアナログの方で、その音の持つ味、人の感情、空気感は、聴く者の感覚細胞にいともたやすく溶け込む。たとえば、サイモン&ガーファンクルの「ミセス・ロビンソン」や「スカボロー・フェア」などを聴いてみると、音の録音技術や配置などの完成度が高いことを再発見できる。 (東京新聞夕刊 2008.6.9 掲載)

音楽のあるべき姿

テレビのチャンネルを動かしていて、偶然ボズ・スキャッグスを見た。ソウル色の濃いナンバーに、歯切れの良いボーカルが乗って、その健在ぶりに驚いた。ラストに歌った「We're all alone」はやはり名曲で、もう一度アルバムを聴きたくなった。「Silk Degrees」のB面最後の溝にレコード針を落とすと聴きなれたピアノのイントロが懐かしく、歌声は「こんなに高い音で歌っていたのか」と思うほどエモーショナルですばらしく、うねるようにハートから響いていた。

ふと、L.A.でコンサートを見た時の、スタイリッシュな白系のパンツスーツを着て、細い同色のスタンドマイクを斜めに持ち、肩をすくめるように歌っていた姿を思い出した。

一九七〇年代、アメリカでは、「Lowdown」をはじめとするアップテンポがポピュラーだったが、日本ではバラードの評価が高く、「Harbor lights」などもうっっとりとして聴いたものだ。このアルバムでは、のちの「ToTo」のメンバーを使っているが、そのサウンドからは、彼がボーカル担当のオリジナルバンドであるかのような印象を受け、特に「We're~」はすばらしいテイクが録れている。皆が気持ちを高め歓喜しながら聴く姿が見えるようである。

机上で頭を使い、すでにあるパターンを組み立ててゆくやり方が多い最近のレコーディングでは、かつてのように、楽器一つ一つの演奏に感動することも少なくなった。それは便利さを追求するハイテク、あるいはさまざまなジャンルの融合開発の行き詰まりがもたらしたものなのか…。スタンダードを聴くと、音楽のあるべき姿が見えてくる。 (東京新聞夕刊 2008.7.7 掲載)

暮らしの中の注意信号

ガソリンスタンドに通い始めて十七年目。セルフサービスで入れた後に出てくる請求書を見て、このまま車を使い続ければ、家計に響くこと間違いなしと思った。

偶然時を同じくして、体を鍛えようと歩き始めていた直後のこと。地球温暖化のひとつの要因となっている排ガスをまき散らすことなく、自らの足を使うことに誇りを感じたりもするが、必要に応じての運転でもどこかうしろめたさを感じずにいられないのは窮屈なことである。「それでは乗るな」と別の自分が言うと、「重い荷物を持って移動するのは不可能だ」と主張する。また、仕事が長時間に及んだ時などは、駐車場で待っていてくれた愛すべき車に乗るだけで安堵する。癒やしの空間でもある。それが好きで車に乗っている人も多いだろう。もし、それほど危機に瀕しているのなら、もっと早く具体的に警告、準備してゆく必要があったのではないか…と思う。

人間、いつもと違うことをすると思わぬ発見があるもの。ある日、初めて自宅から一駅歩いた。道すがら花を見ては喉の渇きがうるおされ、空や木の匂い、虫の羽音から「共生」の二文字が浮かび、迫るような急な坂を穏やかな気持ちで登れば自分のペースで呼吸する大切さに気づく。登る時はあくまで地軸に沿った姿勢で、また、下るときは両ひざを曲げて緩やかにバウンドさせながら地に吸い付くように歩くと、以前よりも楽に、そして地球の息吹が伝わってくるようだ。

自分の体は耳を傾けさえすれば自分が一番良くわかる。感知できる生活の中の注意信号を受け止め、赤で止まって改善すれば青信号もいっそう気持ちよくスタートできるはずだ。新たな発展に向かって。(東京新聞夕刊 2008.8.11 掲載)

"青色"に初秋感じる

虫の音が涼やかに初秋の夜を演出し始めた。まだ暑さも残る日々だが、風や空の青色に次の季節の到来を感じる。

四季は日本の良さの一つではないかと思う。春夏秋冬、生まれた時から心身にしみ込んでいる四つの感触、味、そして郷愁。俳句に季語という言葉があるように、それは歌をみずみずしい感覚で満たし、人々の心に訴える。作曲する人はよく、そこから入ることがある。いわゆる、季節の歌づくりだ。

私が初めて季節を意識して書いたのは二枚目のアルバム「風のない世界」に入っている「桜の季節」だが、その動機は極めて単純で、デビュー作のアルバム「少女」が、失望や悲しみの色が濃い秋冬の世界だったからだ。そこで次の内容は、何が何でも明るくしたかったというわけである。かと言ってパーティの主役のように「パーッと行こうよ」という性格ではないから、小さいころの楽しかったことを思い出して書いた。

「庭は桃色 桜の季節 かすかな風が誘いかけると ラララ 花びらは木からはなれて そのまま空へ 歌いながら花びらは ラララ 屋根の上」

短いが、まるで一枚の絵のような曲になり、歌い方も自然と、幼子のような無垢な側面が出せて、とても楽しかった。歌と真剣に取り組むばかりでなく、何気ない情景を素直に表現することも大事なのだということを教えられた歌だ。

さて、私のエッセーが来月最終回を迎えることになった。この三年間、月一回の短いエッセーはありふれた日常を特別なものにし、一喝するようで有意義だった。声をかけてくださった東京新聞の担当の方々には深く感謝いたします。 (東京新聞夕刊 2008.9.8 掲載)

毎日を充実させて

「細胞は死ぬまで毎日生まれ変わるんです」と、最近知り合ったばかりのKさんは言った。

人体整備士とでも言っておこうか。その理解しやすい前向きな言葉に、長年地面に張り付いていた岩がにわかに動いたようにも思えた。彼の言うところによると、その新しい細胞を最大限に利用して、体中の組織を改善することができるという。刺激を与えて、活性させることさえ続けていれば自然と育ってゆくというのは、人間の頭脳にも同じことが言えそうである。もう年だからとあきらめていれば頭まで固くなり、行動範囲も狭まってしまうだろう。

事実、そう気付いてからはやたらと体を動かすようになった私である。彼は言う。「まず一番大事なことは呼吸であり、息を十分吐きながらリラックスしているときに生物は最も良い仕事ができる」。なるほど、忙しい時、緊張している時にはつい浅い呼吸になりがちで、何とか仕事ができても、結果的に不満が残ったりする。私自身も今まで良かったと思う仕事はどれも、ふだんのようにリラックスした状態で行われたものだ。それが分かっていても緊張してしまうのが人間であるが…。

これからは、どれほど楽しく仕事を充実させられるかが課題になってゆくと思う。自分の部屋の中でも、ステージの上でも歌うときはいつもベストコンディションでありたいからだ。

さて、前回お知らせしましたように、私のエッセーは今日で終わりです。つれづれなるままに書きつづった三年間、みなさんに自分の音楽の生まれる背景を少しでも垣間見ていただけましたら幸いです。またどこかでお会いしましょう。ありがとうございました! (東京新聞夕刊 2008.10.20 掲載)

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